2015年1月26日

自己否定のきわみに

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 今日は、円覚寺僧堂は雪安居(10月~1月の修行期間)の講了(講義の最終日)でした。

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 白隠禅師とその師匠である正受老人とのお話です。まだ、修行中の白隠が初めて

正受老人に相見し、投宿を許された矢先、正受老人は白隠に「風呂をわかせ」と

命じました。風呂を沸かすことは、昔はたいへんな作業です。まず、正受庵近くの川から

水をくみ上げ、崖の上にある庵まで運び、風呂桶に水をはる。そこから木ぎれを拾い集めて

お湯を沸かせるというたいへん労力のいることです。

 白隠は、ようやく苦労して、お風呂が沸くと正受老人に「お風呂が沸きました、

どうぞ」というと、正受老人は手で湯加減をみて「熱い!こんな風呂に入れるか!」と

叱りつけ風呂の栓を抜いてお湯を全部流してしまいました。そして「どこで修行を

してきたんだ!」と罵声を浴びせました。

 白隠はそういわれてもめげずに、もう一度川から水を汲んできて風呂を沸かし

さっきよりぬるめにしたことを確かめて「どうぞ、お入りください。」と言いました。

正受老人、今度は「ぬるい!こんなぬるい風呂に入れるか!」と、また、風呂の栓を

抜き、苦労して涌かし直したお湯を全部流してしまう。

 白隠はそれでもあきらめない、3回目に川から水をくみ上げ、運び、お湯を沸かす。

3回目にして、ようやく許してもらえました。

 別段、お湯を全部抜かなくても、熱ければ水をいれて冷まし、ぬるければ火を加えれば

良いと思うかもしれないが、どうして、正受老人はこういう仕打ちを白隠になさったの

でしょうか?

 正受老人の行為をいじわるととるか、はたまた、親切と受け止めるか?です。

禅の修行は、これくらいのことをされても何なく平気な顔で耐え忍ぶことが

できなければ、とうてい、成し遂げられるものではありません。

 その後、白隠は正受老人のもとで鍛え上げられ認められてから、再び行脚に

出ると二度と正受庵を訪ねることがありませんでした。よほど、骨身にしみて

鍛え抜かれたのでしょう。

 しかし、正受老人が遷化されてから、だいぶ経って、白隠42歳、

ある夜一人で法華経譬喩品を読んでいた時にそこで初めて「正受老人の

お心がわかった!」という体験をされました。そういうものであります。

 厳しい自己否定のきわみにこそあたたかい慈悲の心があふれてくる。

正受老人は、いっけん、白隠に対して手厳しいご指導をされたのは

白隠の将来の大成を願う慈悲心に他なりません。

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ー提唱台上の横田南嶺老師ー
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ー雪安居講了の偈(げ)ー
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2015年1月25日

自我意識

制末大攝心 6日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

この一念を起こせば、自分と他人が分かれてしまう。一念を起こすことで

自己と世界とが対立しへだたりができてしまう。一念を起こそうが起こすまいが

私たち一人一人は、生まれてきた様子を冷静に思えば、この世界の一部分です。

大自然の一部分として、大自然の働きとして生まれてきているにすぎない。

 生まれてきた様子において自我意識が働いたでしょうか?

「よーし!そろそろ生まれよう!」とか「よーし!この日に生まれよう!」と

思って生まれて来た人は誰もいないはずです。

 自我意識が芽生えることは、「ものごごろがつく」と言います。いつのころからか

この手足を自分で動かそうとすると自分の思いとおりに動く。「あれ欲しい!」と

思って自分でものをつかむ。そんなことを繰り返しているうちに「これが自分だ!」と

思うようになり、自分がつかんだものが「自分のものだ!」とするようになる。

 これが「自分である!」と繰り返していき、大きくなると自分と他人というふうに

分けるようになる。また、子どもの頃から「自分のことはきちんと自分でやりなさい!」

としつけられる。そうすると段々と自我意識が高まっていく。

 自我意識そのものは、生きていく上では、必要不可欠で悪いものでは決してなく、

大自然の働きで芽生えてくるものです。いかんせん、自我意識が過剰に働くことに

よって、「これは私のもの!」と主張をしあってお互いを傷つけててしまう。

 確かにいろいろなことを思い考えるから、こうして生きていくことができ、

坐禅をしたり、お寺を建てたり、それぞれがお仕事をしたりすることができる。

 念が、決して、すべて悪いわけではありませんが、人間の悩み、苦しみも

同じ念、思いです。

 同じ水でもお茶を入れて飲むこともできれば、その一方で、相手にぶっかければ

けんかのもととなります。水は治めることができないと氾濫したり、山崩れや

家を流したりして人を殺してしまう。ですが、水が悪いわけではありません。

その水をどのように調えて使えるようにするかが問題です。

 念も同じです。ただ、一念に執着してしまうと周りが見えていない、

我と世界と別のものというへだてたものになってしまう。

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かなちゃん

2015年1月24日

仏心は大慈悲心

制末大攝心 5日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

白隠禅師の師匠である正受老人というと、正念工夫相続、邪念を交えない、

思慮・分別を交えない、妄想を断ち切り、一念も交えないという峻厳な人と

して知られています。しかし、その一方で正受老人は、母親に孝行をし、

幼い子どもを亡くした親の悲しみをを我が悲しみとする詩を残すなど

慈悲心の深さをうかがえます。

 坐禅をして無(む)になるということは決して冷徹な人間になるわけではない。

本当は坐禅をすればするほど、一生懸命に修行をすればするほど、

親を大事にしたり、人の悲しみを身近に感じたりと、慈悲心が深くなってくる。

そうでなければならない。

 ところが、往々にして、一生懸命、坐禅をする人に限って、わがままになって

修行をやればやるほど、わがまま、暴走してしまう人がいます。

自分だけ一生懸命やっている気になって、端から見ればはた迷惑、

周りが全くわかっていない人が多い。

 ではどうしたら良いか?

それは、本当に無(む)になるという心境にいっていないから、わがままになってしまう。

無になるということは慈悲心とどうつながるか?仏心は大慈悲心であるということが

どうつながるか?です。

 最近、京都の相国寺に参禅していた片岡仁志居士の本を読み、なるほどうまいこと

説明なさると感心させられました。

 無になるということはみなと我と一つに見ること。みなと我と一つながりに見えてくる。

人の悲しみが、正受老人でいえば、子どもを亡くした親の悲しみが我が悲しみとして

表れてくる。他人事ではない。他人が悲しんでいるのを見て同情をするというそんな

次元のことではない。一つになっていく。いっしょになって嘆き悲しみ涙を流す様子です。

 これこそ、本心・本性の表れ、正念の表れに他ならない。正念工夫相続三昧とは

自分だけが難しい顔をして坐禅をし、周りに迷惑がかかろうが周りが何をしていようが

何ら無頓着になることでは決してありません。これでは、迷いのさしたるものです。

 本当に無になればすべてのものは己と一つであると見えてくる。これは同情や

感情移入といったものを越えています。

 無の体験からあらゆるものと私とは本質的につながり合って一つになっていると

気づくのです。それが慈悲、慈愛として表れてくる。仏心は大慈悲であるとして

表れくるのです。

2015年1月23日

この心は辺際なき虚空のごとし

制末大攝心 中日

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 弘法大師に「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」という言葉があります。

文殊菩薩は鋭い刀を持ってもろもろの戯論、もろもろの執着、もろもろの煩悩を断つと

いう意味です。禅宗の中興の祖、五祖法演禅師も「趙州の露刃剣」とうたわれています。

 一念が生じたなら、もう真っ二つに断ち切る利剣です。

「念の起こるはこれ病、つがざるはこれ薬」と言います。一念が生じるから迷いとなり

その一念を引きずってしまうから、迷いがどんどん大きくなってしまう。

この自我意識の連鎖を断ち切る、これが坐禅の要です。

 そして自我意識の連鎖を断ち切っていけば、「これが自分の体だ」とか「これが自分である」

という意識分別はとけてなくなってしまう。そうすると「心は虚空の辺際なきが如く」となる。

 この広い大空(大虚空)には、なんらきわみもなく、へだてもなく、つぎめもない。

みんな平等一枚にとけあったところとなる。これが仏心の世界です。

 みんなが一枚平等になり、大きな慈悲の中に包まれた様子です。坐禅の修行というのは

「この心は辺際なき虚空の如くである」と体得することです。

 その為に文殊の利剣であり、趙州の露刃剣であります。

刀を大上段に振りかざして自分の心をかっと見据えて、一念を起こしたら叩き斬るという

気合いを持って坐禅をするのです。

 ネコがネズミをとらえるがごとく、かっと目を見開いて一瞬の隙も見せない。

ネズミがちょっとでも動くものならかみ殺すという気迫を持って坐禅をやらなければ

どうしても、己の煩悩、妄想に引きづり回されてしまう。

 サムライが真剣をといて相手と斬り合うがごとく、一瞬でも油断をしたなら一刀両断に

なってしまう。それくらいの緊張感を持って自分の一呼吸一呼吸を貫いていく。

 煩悩、妄想に引きづり回されながら、口先だけ、鼻先だけでいくら長時間坐禅をしようとも

それでは埒があきません。

2015年1月22日

なんだ、夢であった!

制末大攝心 3日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 お釈迦様にこんなたとえ話があります。広い荒野に旅人が旅をしていたら、

狂った象が追いかけて来た。殺されると思って逃げ回っていると古い井戸が

あり、底に向かって藤の蔓が垂れている。これ幸いと藤をつたわって井戸の中へ

入って、やれやれ、これで象が襲ってくることがなくなった思っていると

井戸の底をみてみれば大蛇が口を広げて待ちかまえているではないか。

 途中の横の壁にも毒蛇がいて今にも襲いかかろうとしている。

もう、にっちもさっちもいかない状況だ。そんな時に、上からカリカリと

音が聞こえてくる。上を見上げてみるとネズミが藤の蔓を噛んでいるではないか。

 もう、どうしようならないときに藤の花から一滴の水が口の中に落ちてきて

自分の置かれた状況を忘れてしまう。

 このたとえ話は、お互い人間が無常を忘れてしまって一時の快楽に身を

任せている様子を描いています。

 では、このような絶対絶命の状況から旅人はどうしたら救われるでしょうか?

 いろいろな答えがあるでしょう。いっそのこと、井戸のどん底へ落ちてしまえとか

苦しみに成り切ってしまうことが救いだとか。

 お経にその答えが書いてある訳ではありませんが、私ならこう答えるでしょう。

体を左右に揺すってうとうととしている様子から、はっと目を覚ませて

「なんだ、夢であった!」これで良いのではないかと思います。

夢から覚めるのが救いです。夢であったと気がついたら良いのです。

 私たちの人生というのは、仏様の懐(ふところ)に懐かれていろいろな夢を

見ているようなものです。怖い夢も見ればどうしようもない夢も見る。

 しかし、はっと夢から覚めてみればどこにも行っていない、仏様の懐の中に

懐かれていたんだと気づくはずです。

2015年1月21日

対立のない世界へ

制末大攝心 2日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちのいのちというのは、何ら対立のない生き通しのいのちというのが

本当なのであります。達磨大師の師匠である般若多羅尊者の言葉があります。

「自分はこうして呼吸をしている。この呼吸こそ百千万巻の経典と同じである」

 人のいのちというものは、いつ生まれていつ亡くなるかと限定して短いものと

してみてしまいがちですが、いのちのおおもとをたどれば、ずっと遠い過去から

無限の未来まで永遠の生き通しであると気がつくはずです。

 それをいっぺんに気がつくのが難しいから、せめて、先祖、親からいただいた

いのちである、そして、次の世代へ受け継がれていくものだという風に説いていく

訳です。自我という枠を少し広げて、さらに無限のいのちに気がつくのが本当の

教えでなければなりません。

 形なき自己に目覚める。もう、死ぬことはないいのちに目覚めていく。そうすれば

生死、有無、善悪という一切の対立はその世界では消えるはずです。姿、形のない

生き通しのいのち、無限大の自己に目覚めていくことです。

 生き通しのいのちへの手がかりがつかめなければ、広い青空をみれば良い。

教えの違いとか国土の違いとか様々な対立を越えて、吹き渡る風をみれば良い。

あらゆる対立のない世界に目覚めていくことがこれから私たちが生きる上で

大事なことではないでしょうか。

 今は、対立の世界です。怨みに対する怨みの報復の世界となっています。

そんなことを繰り返していたのでは、お互いを自ら苦しめる結果にしか

なりません。

良寛さんの詩があります。

「いかなるか 苦しきものと 問うならば 人を隔てる心と 答えよ」

何が苦しみか?苦しみを作り出すものが何か?

それは善悪、是非、生死、老若・・・と様々に分け隔てる心こそ、人を

苦しめる原因であります。こういうものの見方をしていかなくては

なりません。

2015年1月20日

やっぱり、きれいな空とすきとほった風ばかりです。

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ー円覚寺山内・黄梅院 観音堂裏からの夕景ー

 今日から、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心(1週間の集中坐禅修行期間)に

入りました。

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

『維摩経』というお経の中でお釈迦様のこういう言葉があります。

「心の劣っているもの、心のけがれたものには罪とけがれに充ちた世界にしか

見ることができない。もし、心を浄めて世界を見直したなら、光輝く世界を

見ることができる」

 私たちが禅の修行をするのも、この世界は光、光明にあふれているものである

と気がつくことに他なりません。

詩人 宮沢賢治に『眼にて云ふ』という詩があります。

 宮沢賢治が晩年、肺のたいへんな病気にかかり喀血して、血まみれなるような

惨憺たる病状の中で作った詩です。

「だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
・・・
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです」

 自分を見舞いに来てくれた人から見れば、30いくつの若さで血を吐き

息絶え絶えになっている姿は惨憺たる景色しか見えないかもしれないが

しかし、私から見える景色は澄んだ青空と透き通った風ばかりであると

詠っています。こういうのを仏の眼(まなこ)というのでしょう。

こういう仏の眼を開くことができれば、本当の安心(あんじん)の心境と

なれるのです。

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ーマンサク咲いています。 黄梅院ー

2014年11月26日

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-参道-
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-妙香池-
月並大攝心 最終日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

迷いを引き起こすのもお互いの心、苦しみを引き起こすのもまたお互いの心です。

夢窓国師は、心はその向けようによって仏にもなり地獄にも落ちると仰せになっています。

お互いの心一つの持ちようによって人は仏にもなれば、地獄にも墜ちる。

 では、どういう心の向けようをすることが大事なのか?

夢窓国師はまた云われています。心には2つある。心の源を尋ねていけば2つの心が

わかってくる。一つは、白・黒、西・東など分別して、あれこれ頭で意識して

分け隔てて考える心です。これは真の心ではありません。時々、かりそめに身に宿り

パッと出てきては移り変わってしまう心です。この心を本心であると思ったらたいへんな

間違いです。

 もう一つは、自分だ他人だと区別をしない、只、一念も起こさない心です。この心の

おおもとは我・他人の隔てなく、善し悪しと思うことがない。その心の源は、こんな小さな

体だけではなく、また、数十年の短い命ではない。世界一杯に満ちあふれて消えることも

なくなることもない、移り変わることもない仏心です。

 善し悪し、あれこれと思い計ることをしない、何の一念も起こさないようにすれば

仏になるのです。何の一念も起こさないところから出てくるものが本物であります。

 坐禅は「直に断命根」です。あれこれと思い計る、分別することを断ち切る。

この大攝心が終われば、すぐに12月1日から1年で1番厳しい臘八大攝心となります。

昔から臘八は「命取りの大攝心」と呼ばれています。命取りとは、分別、妄想の

息の根を絶やすことでなければいけない。分別、妄想、あれこれと思い計らう、

迷いのおおもとを断ち切るのです。

2014年11月24日

やわらかなる容顔をもて

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-円覚寺 総門-
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只今、紅葉がピークを迎えています。皆様のご来山をお待ちしております

月並大攝心 5日目

 横田南嶺老師が僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 坐禅は、正念工夫、無字三昧の修行ですが、そこに何の感情がないのかというと

決してそうではありません。むしろ、一生懸命坐禅をやればやるほど、人は様々な

情にたいして細やかに気づくようになります。気がつかないということは、坐禅が

浅いと言わざるを得ません。

 また、坐禅というのは基本に忠実です。何年やろうと基本を忠実にやっていく以外に

他はありません。立腰(りつよう)と何度も言っていますが、本当に腰が立っている人は

ほとんどいません。それができるのが千人万人に一人であるくらい、腰をすっと立てることは

難しいものです。だからこそ、常に腰を立てる努力をしなければならない。現状に満足せずに

まだ工夫が足りないと精進をする。

 腰を立て、丹田に力を込めてゆっくりと呼吸をすることによって「オレがオレが」という

世の中を自分中心にみている我執・我慢から解放されるはずです。

 「自分を無にすることがかくも豊かなものが流れ込んでくるとは」の境界です。

坐禅をして無になることは同時に無限の慈悲の心に満たされることでもあります。

これがなければ本当に坐禅をしたとは言い難い。

 本当に自我を死にきって真剣に坐禅をしたからこそ、無限の慈悲があふれ出るのです。

 道元禅師は「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」と仰せになって

やわらかなこまやかな心をもって人に接していくのです。慈悲が足りないということは

坐禅が足りない証拠です。大いに骨を折って坐ってもらいたい。腰を立て、丹田に力を込めて

細く息を吐き天地の気を吸い込んで己なきところに取り組んでもらいたい。

 

2014年11月23日

かすかな息の出入り

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-山門下 イチョウ-

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-総門からの眺め-

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-妙香池の夕暮れ-

月並大攝心 中日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 呼吸を練るといいます。それには腰をしっかり立てておなかの下、気海丹田に力を込める。

漫然と呼吸をしていたのではだめ。気海丹田に気を込めて細く長く息を吐いていく。もう

自分の外の景色もない、我もない、何もなく、ただ、呼吸をする。

 鼻から極めて静かに呼吸をする。肚のどん底から、まるで線香の煙のように息を吐く。

細い息がかすかにもれるくらいの息の出入りで、もう、自分で呼吸をしていることも

意識に上ってくることはない。かすかな息の出入りがあるだけである。そういう中で

兀兀と坐り抜く。

 最後は息の出入りばかりとなり、全身の毛穴からまるで霧が蒸すかのごとく息が

出入りする。

 吐けば天 吸えば大地と 一如なり

 
         かくて その身は 天地一枚

 ずっと細く吐く息は天に満ち渡り、大地の底から吸い上げて、吐く息吸う息を繰り返す。

身も形も呼吸も忘れて、ただ、この生きているものだけをはっきりさせる。

「生きているものを確かにつかみおり」です。この身、このまま生き通しのいのちです。

この生き通しのいのちを全身で感じ取ってください。

 我もなく 人もなければ 大虚空

        ただ 一枚の 姿なりけり

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