2019年9月5日

ノコギリ職人の話

毎日のように
いろんな方から、いろんな手紙、書類
書物などが届きます。

そんな中で、とある教師の方が
毎月勉強会を開いて、その講演録を
載せた会報を送ってくださっています。

それは、毎月勉強になる話しが載っていて、
いつも有り難く拝読しています。

今月は、ノコギリ職人の話が載っていました。

ノコギリの目立ての職人であります。
十三歳からノコギリ製造の鍛冶屋に丁稚奉公に入り
一生懸命勤めて、若くして認められてゆくのですが、

不注意から、全身に火花を浴びて
片目を失明してしまいました。

片目では遠近感が得られませんの
職人としては致命傷らしいのです。

しかし、その職人はあきらめずに人の
何倍も努力したのでした。

親方からも、自分には目は二つある、お前は一つしかない、
だから教えることはなにもない、人の何倍もやるだけやれ
としか言われなかったそうなのでした。

努力の結果、ようやく一人前になれたのですが、
目が不自由で、まともな仕事ができないと思われて
全くお客が来なかったのです。

たまさか、その地方で一番腕の立つ大工の親方が
急な仕事で、ノコギリの目立てを頼みたいと思ったけれども

どこの職人も手いっぱいで、すぐにできない。
そこで、その職人のところに注文がまわってきました。

「まともにできないらしいと噂をされているけれども
普通に切れるくらいにしてくれたらいい」と
注文されました。
これほどの屈辱はなかったと後に語っています。

しかし、大工の職人は、一度そのノコギリをひいてみて
目立ての名人であると分かったそうです。
そこで、その後は、すべてのノコギリの目立てを
頼まれるようになったという話しです。

ノコギリ職人の晩年のこと
御孫さんとお風呂に入ると
その職人の全身が古傷だらけだったそうです。

毎朝、まだ暗い中、林の中を
体中傷だらけになりながら、枝をよける訓練をして
遠近感を養う努力をしていたというのでした。

苦労に苦労を重ねて
ハンディを乗り越えて立派な職人に
なられたという話しでした。

涙無しでは読めない文章でした。

それを読んで私は
坂村真民先生の
「鈍刀を磨く」という詩を思い起こしました。


鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ


私は、日々そのような努力を
積み重ねているだろうかと
思うと、恥ずかしく思いました。

横田南嶺

2019年9月4日

朴(ほお)の葉

青山俊董老師に招かれて
塩尻の無量寺に参りました折、

まず目についたのはご本堂の前にある
朴の大木でした。
夏でしたので、花はありませんが
大きな葉っぱがたくさんついていました。

青山老師と一緒に本堂の前を
歩いていると
目の前に、朴の大きな葉っぱが
ハラリと舞い落ちました。

すると、青山老師は
とっさにお身を屈めてその朴の葉を
お拾いになって
私に、スッと渡してくださいました。

青山老師というお方は、そのたたずまい
お歩きになるお姿、
一挙手一投足、ことごとく絵になるお方なのです。

朴といえば、なんと言っても
坂村真民先生がこよなく愛した木です。

そのことを十分ご承知の上で
これから真民詩の話しをしようとする
私に朴の葉を下さったのでした。

真民先生には『朴』と題する詩集があります。
その詩集の最後は、朴という詩が二つ
載せられています。

青山老師からいただいた無量寺の朴の葉は
もちろんのこと、大切に持ち帰ってきました。

写真は
塩尻から持って帰った朴の葉と
詩集『朴』の表紙。
そして『朴』の最後に載せてある
「朴」の詩。

横田南嶺


2019年9月1日

長月・9月の詩(黄梅院掲示板)


横田南嶺老師揮毫、坂村真民さんの詩です。

円覚寺山内・黄梅院の山門下にある掲示板にて、実物はご覧になれます。

2019年9月1日

9月の詩(ご朱印お守り受付所の掲示板)


総門のご朱印・お守り受付の奥に 管長揮毫の坂村真民さんの詩が掲げられています。

ご来山の折にどうぞご覧ください。

2019年8月27日

ひとすじ

青山俊董老師の無量寺
禅のつどいに招かれてまいりました。

朝の野点席で、
青山老師が、お使いになっている
茶杓のはなしをしてくれました。

その茶杓というのは、
お釈迦様にご縁のある竹林精舎の
竹で作られたものだというのでした。

それに青山老師は「ひとすじ」と銘を付けられたと
仰せになりました。

ご覧なさいと言って、
私に茶杓を渡されました。
受け取ってその茶杓を拝見させてもらうと
珍しく、細い茶杓の中央の、縦のすじが通っていました。

その景色から、「ひとすじ」と銘を付けられたのでした。

青山老師は、一宮に生まれになって
五歳の時に、塩尻の無量寺に入門されています。
十五歳で得度されて、愛知専門尼僧堂で修行、
駒沢大学で学び、四十三歳で尼僧堂の堂長に就任されています。

沢木興道老師、内山興正老師、そして余語翠巌老師など
曹洞宗の名だたる名匠に師事されてきて
実に文字通り「ひとすじ」に禅の道を歩まれてきた老師であります。

私などは、青山老師に及ぶべくも
比ぶべきものもありませんが、
どうにか、こうにか、十歳で坐禅の教えにめぐりあって
今日まで参りました。

無量寺での講演は、九十分の講座を三回つとめましたが
第一回は、自己紹介を兼ねて
今日に到るまでにめぐりあった老師方の話しをしました。
小学生時代にめぐりあった目黒絶海老師、
中学時代にめぐりあった松原泰道師
高校時代にめぐりあった山田無文老師、
大学時代にめぐりあった小池心叟老師、
老師方との出会いのおかげで
今日ここにお招きいただいていますと話しをしました。

青山老師も私の拙い講座をお聞き下さって、
最終日には、無量寺での講演もこれが
最後だと思って、控え室で気を引き締めていますと
突然、青山老師が控え室にわざわざお運びになり

どうしてもお願いがあるのだと仰せになります。

ご老師の願いであれば、なんなりと承らなければと
思っていると、
その願いというのは、
「来年も是非二泊三日で講演してもらいたい」との
お言葉でした。

私如き、若輩者が
青山老師のお寺にお招きいただいただけでも
無量の光栄なのですが、
さらに続いて来年もというお言葉には
驚きましたが、有り難く受けることにしました。

青山老師のようなお方には及びもしませんが
愚鈍なるささやかなる未熟者の歩みを
老師がお認めくださったのかなと
勝手に受け止めています。

坂村真民先生に
「一すじに」という詩がございます。

一すじに

一すじに
生きたる人の尊さ
一すじに
歩みたる人の美しさ
われもまた
一すじに生きん
一すじに歩まん


 

横田南嶺

2019年8月20日

寺子屋

本日、新潟の円覚寺派のお寺で
催している寺子屋の行事で、
小学生から高校生まで
二十名ほどが来山します。

子供さん達に何を話して伝えようかと
考えながら、
やはり、腰骨を立てることと
手を合わせることの二つを
伝えようと思いました。

おりしも、庭の蓮が
二輪並んで咲いています。
まるで両手を合わせているかのように。

坂村真民先生に『両手の世界』という詩があります。


両手の世界

両手を合わせる 
両手で握る 
両手で支える 
両手で受ける
両手の愛 
両手の情
両手合わしたら 
喧嘩もできまい
両手に持ったら 
壊れもしまい
一切衆生を 
両手に抱け


横田南嶺

2019年8月17日

台風一過

台風一過の関東地方は
厳しい暑さになるという予報です。

本日は、横浜の朝日カルチャーセンターで
合掌について九十分の講義。

朝日カルチャーセンターは
ここ三年ほど、年に一度お話させてもらっています。

今年のテーマは、「合掌」です。
はじめ、「合掌」について九十分話して欲しいと
依頼された時には、
「合掌」で九十分も話すのはとても無理と
一度お断りしたのでした。

しかし、再三の要望に、
困難な事に挑戦する心が目覚めて
引き受けて資料作りに手をつけました。

さいわいに坂村真民先生に
「合掌」にかかわる詩がいくつかありますし、
それに菩薩願行文を少し講義すれば
何とかなるだろうと思えるようになりました。

真民先生に「真美子の合掌」という詩があります。


真美子の合掌

だまってみていると 
ほとけさまに 
ごはんをあげて
ひとりしずかに 
おがんでいる
わたしがみていることを 
ひょいとしって
はずかしがって 
にっこりした 
その顔のよさ


 

真美子さんは真民先生の三女です。
まだ幼い真美子さんが
小さな手を合わせている
ほほえましい姿が見に浮かぶようです。

横田南嶺

2019年8月16日

山門施餓鬼法話

本日は円覚寺本山の
お檀家さん達のための施餓鬼会でした。

午前十時から法話をして
十一時から施餓鬼法要
十二時から食事で、私もみなさんと共に
食事をいただきました。

台風の影響で風が強くて
その分暑さがいくらか和らいだように
感じました。

法話では、坂村真民先生の詩から
お盆についての詩を四つほど選んで
お話ししました。

その中から「お盆が近づくと」を
紹介します。


お盆が近づくと


お盆が近づくと
わたしは心も体も落ちつかなくなり
仕事も手につかず
ただひたすら待つのである
年に一度遠い処からおいでくださるのに
不在と聞かれたらどんなにか
がっかりされるだろうし
そんな思いにかられて
どこへも行かず
ただひたすら待つのである
早く父を亡くしたので
お盆が近づくと
お迎えの準備は
小さい時から
長男のわたしがすべてしてきた
お経も早くから覚えた
喜んでもらいたかったからである
年をとった今も
この心に変わりない
ことしはいい香をたこう
いい花をたくさん供えよう
ああ
賑やかになるぞと言いながら
わたしはただひたすらに待つのである


 

今の時代では、お盆には
亡くなった人が帰ってくるのだと言っても
そんなことは信じられないと言われるかもしれません。

科学的に証明できることでもないので
無意味だと言われるかもしれません。

しかし、この待つことに意味があります。
待つことは、心を豊かにしてくれます。

私は、祈りとは待つことであると思っています。
無事であることを祈るというのは
無事で帰ってくることを待つことです。

信じて待つことは、心を豊かにし、生きる力を与えてくれます。

花が咲くように祈ることは、
花ひらくのを信じて待つことであります。

昨日花ひらいた蓮の花が
今日は更に一層花ひらきました。

横田南嶺

2019年8月15日

蓮の花

春先に植え替えし、肥料を入れて
手入れをした蓮が、
終戦記念日の今朝、花ひらきました。

近年、終戦記念日には予定を入れずに
静かに過ごして、正午に黙祷して
今上陛下のお言葉を拝聴しています。

「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って
再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」
「世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」

という陛下の言葉を聞いて
「深い反省」の内容を
考えなければならないと思いました。

この世に繰り返される戦争や憎しみの歴史を
思うと、泥の中から花ひらく蓮華には
なお一層心ひかれます。

坂村真民先生に
「その時から」という詩がございます。

その時から

宇宙は
一つの大きな
蓮華の花だ
と言われた
世尊のポエジーが
うれしくてならず
花好きのわたしは
その時から
この人の後に
ついて歩く
うたびとになった


 

横田南嶺

2019年8月15日

お盆

坂村真民先生の詩に
「つくしこいし」という題の詩があります。

つくしこいし

きょうはお盆
一日こころしずかに
妻にも子にも温かい心で接し
人をうらまず人を傷つけず
父をおもい母をおもい
仏陀につながるありがたさに満ちて
草にも木にも水をやり
鶏(とり)にもおいしいものを食べさせて
もろもろの恩に感謝しよう
朝から筑紫恋しの蝉が鳴き
ふるさとのことが
しきりに偲ばれてならない


 

つくしこいしとは、ツクツクボウシという蝉の事です。

父母の恩、ご先祖の恩を思う一日であります。

また終戦記念日でもありますので、
今の平和を築いてくださった先人たちのご苦労も
忘れることなく、一日を過ごしたいものであります。

横田南嶺

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