2019年7月16日

花園大学 公開講座で講演されました

横田南嶺管長が 7月16日(火)
京都・花園大学の公開講座で「禅僧の言葉に学ぶ ― 無学祖元禅師 ―」について
講演されました。

公開講座の詳細は→ 花園大学 公開講座

2019年7月14日

7月の日曜説教会 映像

今日、円覚寺・大方丈にて行われた横田南嶺管長による日曜説教会の映像です。

東京都中央区日本橋にある三井記念美術館に出展されていました円覚寺の開山である無学祖元禅師(仏光国師)の御像が昨日、円覚寺に戻って参りました。

横田南嶺管長がその所感や、展示会に行かれた俳人の長谷川櫂先生の書かれた新聞の記事の朗読、円覚寺創建にまつわる仏光国師の思い等をお話しされています。

皆さま、ぜひ、ご覧ください。





2019年7月14日

8/4(日)清水寺「うらぼん法話」(於:京都)

夏の京都の風物詩のひとつ・清水寺の「うらぼん法話」を今年は横田南嶺管長が担当されます。
関西方面にいらっしゃる方はどうぞご参加ください。

日時:8月4日(日)朝6時~(約1時間) ※無料・予約不要
場所:京都 清水寺 大講堂 圓通殿
  (仁王門前から係りの方にご案内いただけるそうです)
詳細は →清水寺「うらぼん法話」

2019年7月14日

PHPプレミアム「生き方は顔に出る!いい顔してる人」のご紹介

PHP9月号増刊号特別保存版
PHPプレミアム
「生き方は顔に出る! いい顔してる人」
に管長が、掲載されています。
※ PHPプレミアムは 七月十八日の発売



管長の言葉。

私など、とてもいい顔といえるものではありませんが、
あのPHP誌に登壇したたくさんの人の中から
私如き一介の禅僧が選ばれるとは、
うれしいことと思っています。
たぶん写真家の腕が良かったのか、
ひょっとしたら、他の人の引き立て役なのかもしれません。

(記事の内容は過去にPHPで取材を受けて掲載されたものの再録です)



2019年7月11日

雑草を取らぬ

制末大攝心での横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。

 『臨済録』に「荒草(こうそう)曽(かつ)て鋤(す)かず」という言葉があります。

 この解釈は様々ございます。

古いところで、無著道忠禅師は、この言葉の主語を三乗十二分教であるとして、

そのような経典で耕すことでは、

心の荒れた草をすき取ることはできないぞと説かれています。

 それを踏まえてか、朝比奈宗源老師は、

「お前なぞそんなふうでは実地の修行は少しもできてはいないな」と訳されました。

 山田無文老師は、「えらい草だらけで、ちっとも草刈りがしてないわ、…

三乗十二分教、お釈迦様の言葉の草がいっぱい茂っておるわ…」と解釈されています。荒草を経典とみています。

 今岩波文庫で出版されている入矢義高先生の『臨済録』には、

荒草を無明煩悩とみて「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ」と訳されました。

 入矢先生も、この荒草曽て鋤かずの

「主語を私(臨済その人)と取ると趣旨は忽ち一変して

『私は無明の煩悩を除いたことはない』という意味になり、

…相手の教条的な仏性観を一気に砕き去ることになる」と示しています。

 しかしながら、入矢先生は、

「質問者の問題意識が初めから低次元である以上、

それに対応する臨済の答えは、右のような高次のものであっては相手に通じない」として、

「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ」と訳されました。

 駒沢大学の小川隆先生は、

相手が低次元であるからといって、その相手の低調に応じた答えであるよりも、

「やはり、留保も制約もなく、その信ずべき一点を断固として非妥協的に言い切ったもの」として

「わしは雑草を鋤いたことなどない

(煩悩を除いて仏性を明かすという経論の説は、所詮、第一義ではありえない)」、

という解釈をされました。(岩波書店『禅の語録のことばと思想『臨済録』』より)。

それぞれの趣があるところであります。

 
臨済禅師は、学問にとらわれた学僧に対しても、

全身全霊で、仏法の真実を丸出しにされていると思われます。

そのことは、小川先生の解釈によって一層引き立ってくると思われます。

 仏心の世界には、煩悩だの雑草だのという沙汰はありはしない、

そんな雑草など取ったこともないという、

臨済将軍の面目躍如たるところがうかがえるのであります。

(7月10日の提唱より)

2019年7月10日

無位(むい)の真人(しんにん)

 制末大攝心での横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。

 臨済禅師のお説法の中でも、もっともよく知られている言葉が、

「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り」というものです。

 この生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。

 私とは、いったいなんでしょうか。

あなたは誰かと問われれば、まず名前を答えるでしょう。

しかし、それは仮に付けたものにすぎません。

どこの生まれであるとか、今何をしているとか、どれくらいの財産をもっているかなどというのも、

本当に自分を表すものではありません。

 臨済禅師は、名前や年齢や、性格や職業など、または地位や名誉などではない、

真の自分とは何かを問われたのです。

 それを、臨済禅師は、お説法の折に、禅師の話を聴いている人達に向かって、

いま目の前でこの話を聴いているものがそれだと示されました。

 仏とは、今この話を聴いているものだと説かれたのでした。

 本当の自分と仏というのは、禅においては同じ意味であります。

 それまでの仏教では、仏とはとてつもなく長い時間かけて修行して、

ようやくたどり着けるかどうかという、遠い目標でありました 

それが、なんと今ここで話を聴いているものだと示されたのですから、

驚きのお説法であります。

円覚寺の今北洪川老師も、この臨済禅師のお説法をもとにして、

「立とうと思ったら、すいと立ち、すわろうと思うたら、ちょっとすわる、

此外に何にもむつかしき分別は、更々いらぬ…

しからばこの立つやつ、すわるやつ、見るやつ、聴くやつに気を付けて、

成程仏法はこいつじゃと、只一念信入するが肝心じゃ」と説かれました。

 立とうと思ったら、すっと立つ、それが仏だというのであります。

仏は遠くにあるのではなく、私自身がこの生身の体を通して、見たり聴いたり、坐ったり歩いたりしている、

そのものだというのであります。

本当の自分は、これから求めるというものではなく、

今ここにいるというのです。

実に、私たちの日常が、仏の活動だと説かれたのでした。何とも画期的なお説法なのです。

(7月9日の提唱 -『臨済録』序 – より)


(写真は居士林の水場にて)

2019年7月9日

8/17(土)の管長講演のご案内

日時:8月17日(土)10:30~12:00
場所:崎陽軒本店6階(横浜駅東口)
受講料:一般 3,888円
※詳細・お申込みは「朝日カルチャーセンター」にお問い合わせください。
電話:045-453-1122

2019年7月9日

臨済の三句

4月に始まった雨安居(うあんご)の最後の大攝心も、4日目「攝中」(せっちゅう:中日のこと)を過ぎました。2日後に講了日が迫る中、在錫する25名の修行僧は獅子奮迅の気迫で己と向き合います。
横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。


 仙陀婆(せんだば)という譬え話が『涅槃経』という経典に出てきます。
仙陀婆というのは、一に塩、二に水、三に器、四に馬という四つの意味があります。
 王様が朝起きて手や顔を洗おうとなさって、家臣に「仙陀婆」というと、
家臣はすぐさま水を持ってきます。
食事の時に「仙陀婆」と言われたら、
食事の味付けに必要な塩を持ってきます。
食事が終わって「仙陀婆」と言われたら、
器を持っていって飲み物を飲ませてさし上げます。
 王様が外出しようとなさって「仙陀婆」と言われたら、馬を用意するのです。
こうして王様の意のまま用途に応じ、違うことがないようになれば上出来であります。
そこから、相手が意味していることをその言葉の前後から正しく判断できうる俊発怜悧の人を仙陀の客などと表現しています。

 更にもっと言えば、王様が何も言う前に、お水を用意したり、馬の用意ができるようになれば言うことはありません。
何か言葉にする以前に、王様の様子をチラッと見て、王様の心を察するのが臨済禅師のいう「第一句」であります。
言葉になる以前に分かるのです。
第二句は、王様から「仙陀婆」と言われて気がつくのです。
「仙陀婆」などという言葉は、常識では推し量れないものです。祖師の「乾屎・(かんしけつ)」だの
「麻三斤(まさんぎん)」だのという言葉で気がつくのが第二句です。
 第三句というのは、この場合に王様が「仙陀婆」と言われたらお水を用意することだよとか、
馬を仕度することだよと親切丁寧に説明してあげることです。

人は、それぞれです。
何も言う以前に気がつく人もあれば、何か一言で察する人もあれば、
丁寧に説明してあげてようやく分かる人もあります。
それが第一句、第二句、第三句というのです。
いずれにしても、その人に気がつかせることが大事なのです。

(7月8日の提唱 -『臨済録』序文- より)

2019年7月8日

「臨済」のいわれ

円覚寺僧堂では7月5日より1週間の制末大攝心が始まりました。
今回の攝心の提唱では、横田南嶺管長が『臨済録』をその序文よりお説きくださっています。
以下はその一節です。


 臨済宗は、改めて言うまでもなく臨済禅師の教えであります。
臨済禅師とは、今から千二百年ほど前の中国唐代の禅僧であります。

黄檗禅師のもとで修行されて、真定府の臨済院に住されて説法されました。
今の中国の河北省石家荘市正定県にあたります。

「臨済」という名前の由来ですが、これは『臨済録』の序文に
「院、古渡に臨んで往来を運済す」とありますように、そのお寺が古い渡し場に臨んでいたということに依っています。
 済は渡し場という意味です。渡し場に臨んでいるから「臨済」という簡単な由来なのです。

 しかし、ここにも深い意味があると思います。
渡し場というのは、昔は川で物を輸送しましたので、大事な物流の拠点であります。
そこに自ずと町が形成されて、人が多く集まっていました。

 臨済禅師は、同時代に活躍された徳山和尚を、
高い山の頂上に坐っていて誰も寄せ付けない人だと評しています。
臨済禅師はこういう生き方をあまりよく思ってはいないのです。

 誰も寄りつかない高い境地に坐るのではなくて、十字街頭にいながら、
俗世に迎合せずに、それでいて多くの人に接して、
その往来の人達を迷い苦しみの世界から悟りの世界へと運び渡してゆこうという願いをもっていたものだと思われます。

 そんな思いのこもったのが「臨済」という名前になっているのだと私は受け止めています。

 この現実の世の中に背を向けるのではなく、そのそばにいながら、
それでいて迎合せずに染まらずに、多くの人を導いていこうというのが臨済禅師の願いでありましょう。

(7月7日の提唱より)

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臨済禅師1150年大遠諱 日中合同法要で河北省・臨済寺を訪問(2017年9月)

2019年7月6日

天台宗 阿純章住職が新聞記事で紹介されました

『生きる力になる禅語』(致知出版社)で横田南嶺管長と対談された
天台宗圓融寺 阿純章(おか じゅんしょう)住職が中外日報(令和元年7月5日号)で紹介されました。




『生きる力になる禅語』(致知出版社 2019年3月刊行:本体価格 1,500円)

(画像は致知出版社より)

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