2014年5月9日

心は絵師のように

横田南嶺老師が先日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 心が外に向かって働くと迷いの世界を作り出す。ちょうど映画館で映写機が

スクリーンに映像を映し出しているようなものです。ありもしない世界を映し出して

いるのだけれども、我々はあたかもそういう世界があるように思って感動したり

笑ったりする。それらは映写機が作り出す幻影にしかすぎない。

 私たちの迷いの世界もこれと同じで、私たちの心が作り出す幻影にすぎません。

見たり聞いたりして様々なものを心に描いて見とれているようなものです。

大切なのは、その絵を描いているものは何ものか?ということです。

 心の作り出したところの様々な映像に振り回されるのではなく、

その見たり聞いたり感じたりして働いているものはなにものか?

作り主は何ものか?とこころの内に自問することです。

そうするとその作り主は何も足らぬものはないと気がつきます。

不幸な映画を見たからといってその人が不幸になるわけではない。

貧乏な映画を見たからといってその人が貧乏になるわけでもない。

逆に成功した物語を見たからといってその人が成功するわけでもないし

悲惨な戦争物を見たからといってその人が傷一つつくわけででもない。

 私たちのこころというものは何も欠けるものはないのです。

清らかな世界も作ることもできれば、一瞬にしてけがれた世界も作る。

天国も作れば、地獄も作り出す。しかし、これらはこころの作り出す

様々な幻影に過ぎないのです。それに仮の名前をつけて仏だ、菩薩だ

サトリだ、迷いだとよんでいるに過ぎないのです。

 迷いの世界に振り回されずに、「その迷っているものは何ものか?」と

内に問いかける。苦しみに埋没するのではなく、「その苦しいと感じている

ものは何ものか?」と問うことです。

そうして求めていけば、自己本来の仏が光を放ってくる。それのみが真実であり

それ以外は仮のものにすぎないときづくはずです。
 
 

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