2018年12月6日

「蟻の巣の中にいた」


 仏光国師は、十七歳から足かけ六年に亘って、趙州和尚の無字の公案に取り組まれました。

はじめ一年で何とか片付くと思ったのが、うまくゆかず、二年三年経っても、まったく歯が立ちませんでした。

五年が経ち六年目に入るころには、夢の中で無の夢を見、何を見ても悉くが無字になってきました。

ふっと少し坐ったつもりが、一日経っていたというようなこともあり、

ある時には、坐ったまま一日一夜、意識を失っていたこともあるほどでした。
 
そして、ある晩、夜中まで坐りぬいて、朝の時間を知らせる木版の音を聞いて心境が開けました。

 その時の感慨を、「なんと自分は長い間、蟻の巣の中にいたことであろうか」と述べています。 

小さな狭い蟻の巣の中のような所にいたと気がつかれたのです。

 悟るということは、今までの自分が如何に思いこみにとらわれ、自ら苦しみを造り出して、

狭い世界の中に閉じこもっていたことが、はっきりと分かることであります。

 我々の迷いのもとを五蘊(ごおん)と申します。

色(しき)という、このからだがあり、その体に具わる眼耳鼻舌身という感覚器官がございます。

目で見るもの、耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れるもの、

それぞれに、快か不快かを感じます。これが受です。

快と感じたものには、喜びの思いが生じ、不快と感じたものには怒りの思いを起こします。これが想です。

そして思ったことに対して、嬉しいことには、更に愛着を起こします。

自分のものにしたいと思うのです。

それから不快なものには憎しみを起こします。排除しようとします。これが行です。

愛しようとしたり、憎もうとしたりするのです。

その結果行動を起こして、我々は外に世界に対して、善と悪という、自分の都合で色分けをしてしまいます。

これが識です。色受想行識で五蘊となります。

 私たちは、自分で造り上げた五蘊という穴の中に住んでいるのです。

他の人はまたその人の五蘊という枠の中で生きているのです。

ですからお互いに、違いますので時には反発したり、争ったりしてしまいます。

本来自己の無いという広い世界に気がついたならば、自分が今まで狭い五蘊という、

蟻の巣のような狭い世界の中に閉じこもっていたと分かります。

五蘊をありのままに観察できるようになるのです。

すると五蘊に対するこだわりが解けます。

五蘊というものは、何もとらわれることのない空なるものだということがはっきりします。

それによって、苦しみから解放されるのです。般若心経に説かれる、

「五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す」というところなのであります。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

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